今年度 第1回目の出前授業が開催されました ( いわき市立平第三中学校② )

posted 2019/01/10 category Blog

続いてJason Scott Fordさん(復興支援メディア隊)です。

Jasonさんはオーストラリアから日本に来日し、結婚。来日19年目の時に震災に遭遇しましたが、家族の反対

を押し切って日本にとどまり、ボランティア活動で日本人を支援し続けたました。なぜ日本に残ったか、震災

でボランティア活動をしながら何を感じたか、などについて在日外国人の視点から語ってJason sanいただきました。

<震災の中で感動したこと>

・中学生が、震災直後に走り回って水の配給を手伝っていたことから、日々の行いが感じ取れたこと。

自分は、震災が起こった直後は、頭が真っ白になってしまい、何も考えられなかった。震災から3日後に、海外から支援の申し出があったことをきっかけに行動を開始。その活動に参加するために訪れた石巻市の遺体安置所で出会った女性の様子から、大震災への理解がようやく出来るようになった。

・自分を強くしてくれた震災

生命の大切さ、周囲の人々がどれだけ大切なのかについて実感を持った。プラスのこともマイナスのことも様々なことが起こったが、すべて自分の成長へと繋がった。

・外国人が学ぶべき日本人の姿勢

震災時、スーパーへ行って並んだ時に、パニックを起こさず、店員もテキパキと案内をしてくれたこと、外国人の自分を気遣ってくれたこと、などから、日本人は自分よりも相手を思う心が強いと知り、そのような日本人が素晴らしいと改めて感じた。

<質疑応答>

Q. ボランティアをするにあたって、親に反対とかされなかったんですか?

A. 震災後には、帰って来いって言われた。当時は福島の原発事故や、地震がもう一度起こる可能性もあった

 から。母も姉も泣きながら帰って来いと言った。でも自分のうちは日本だし、みんなが困ってるのに帰る

 ことはできないと思った。2012年に亡くなった父からは、2011年の8月ごろから「すごく尊敬してるよ」

 と激励された。「すごく嬉しい、そういう活動してるっていう事が。息子として誇りに思う」と言われた

 ことが印象に残っている。

Q. 震災後、通訳を頼まれたときどう感じたんですか?

A. 津波にあって、本当に辛い思いに触れたっていうか、それしかできないなっていうのが最初の思いだった。

 自分の力って、日本語なんだろうなって震災に遭って思った。視聴者に思いをある焦点で通訳しなくちゃ

 いけなかったときは、子供の前でボロボロに泣いちゃった。その話が辛すぎて。なんとかしたくてもでき

 ないな、という虚しさがあった。でも、通訳をしなかったらこういう体験や出会いもなかったから、できた

 ことに感謝している。

 Q. 支援してて一番心に残った言葉はなんですか?

 A. 「ありがとう」かな。あと挨拶。それから言葉では無いんだけど、自分が石巻で教えていた英会話を震災後

  に再開した時に、子供達が見せてくれた笑顔が印象に残っている。

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続いては榎田智子さん(復興支援メディア隊)です。

 

復興支援メディア隊のメンバーとして、震災直後から映像やSNSなどによる情報発信などを開始。震災での活動の話を中心に、そもそもメディアとは何か、仕事をする上で何が大切かなどについて語っていただきました。

tomoko san

・設立の経緯とこれまでやってきたこと

復興支援メディア隊結成のきっかけについて、経産省の研究会のつながりで本田さんのところにまずは入ったこと、そこで様々な情報を得ることができた。その時、悲惨なものを多く見るだろうという覚悟で入ったが、様々な人のインタビューをしていくうちに、むしろ日本人の力強さ、思いやりや底力を思い知るようになる。そこで、まずはそういった映像をyoutubeで配信し始めたのがきっかけ。

その後、三井物産さんやBS12との出会いがあり、「未来への教科書」として番組化させていただけた。番組は5年で117本制作。そのネットワークで今開催している出前授業に繋がった。また、子供達にカメラを渡し、写真を撮影して、言葉を考えてもらって、ポスター化した。「未来への教科書ポスター展」は羽田空港、議員会館、文科省、そのほか復興支援イベントなどの際に日本各地、遠くはシドニーで展示され、大きな反響を得た。また、従来のネットワークを活かし、中国国営放送CCTVの撮影班を招聘、「気仙沼の春」という番組政策につながる。この番組は2012年度アジア太平洋放送大賞を受賞するなど大きな反響を呼んだ。

他にも、台湾の盲目のピアニストを招聘し、東北でコンサートツアーを実施するなど、様々な活動を展開するなど、いろんなことをやってきたが、自分たちがやってきたことは「記憶のアーカイブ化」。過去からしか未来は生まれない。だから「未来への教科書」というタイトルに、その思いを込めた。

・配信事例「釜石東中学校 佐々木先生」youtube

釜石は津波てんでんこの伝統を守り、多くの人が助かった地域。「釜石の奇跡」と言われた。釜石東中学校でも、ほとんどの生徒が助かった。引率の佐々木先生のインタビューは1万回を超える再生回数。佐々木先生の話から、助かった要因は「日頃の防災訓練の成果」「子供達や先生に、先入観がなかった(ここまで津波は来ないだろう、というのがなかった)」「てんでで逃げる」

 ・メディアとは

 メディアとは新聞、テレビ、ラジオなどの報道という意味が一般的だが、「何かと何かを取り持つもの」という意味で行けば、人や場所もメディアと言える。人間も、祖先からの何かを受け継いで、子孫に伝えていくメディアと言える。自分が今、生きているのはそのような大きな意味があることをいつも心の隅に置いておいてほしい。

 ・メディアに携わる際に大切なこと

 常識を疑うこと。常識はその場、環境、時代で大きく変化するもの。それは隣に住んでいる人と自分の家でも違うくらい、実は人によってかなり違う。ニュースなどを見たとき、必ず先入観だけで判断しないことが大事。生き物は、今ある常識を超えて何かを生み出したり、変化したりして進化してきた。みんなも新しいこと、人と違う意見を言うことを怖がらずにやって欲しい。

 ・みんなへのメッセージ

 海外の人たちが賞賛する日本人の素晴らしさは、例えば、部活や、掃除、靴を並べて脱げることなど、みんなが普段何気なくやっていることだったりする。今はそのようなことに気づかないかもしれないが、そういうことが大人になって大きな力になってくることを忘れないで欲しい。

 

<質疑応答>

 

Q. 風評被害の影響で何が一番深刻だと思いますか。

A.例えば福島産の米がいまだに半分くらいしか売れないなど、7年経っても長期的な風評被害になってしまって

 いる。また、福島の子供達が避難地の他県などでいじめられるなど、ちょっと考えたらわかることが、多数の

 思い込みで不幸なことになっている。それらは、放射線の影響などについての情報が正しくきちんと伝わって

 いないことが大きいと思うし、本来、正しくきちんとした情報を流すべきメディアも、それを助長するような

 正しくない情報を流すケースもあり、残念に思っています。

Q. 震災から7年がたち、県外や世界に情報を発信したことにより、何か変わったことはありますか。

A. 復興支援メディア隊では、あまりマイナスの情報は流していない。みんなが頑張っていることや将来が明る

 くなるようなことを主に扱っているので、逆に日本人の良さや底力のようなものを世界の人に感じてもらえ

 る機会の一つにはなったかなと思っています。

 

 

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次にお話しいただいたのは、震災後に南相馬に赴き、医者という立場でボランティア活動を展開し、その後、

南相馬で自身のクリニックを設立し、今に至る堀有伸さん(ほりメンタルクリニック院長)です。

 

震災直後どう感じたか、その後何を思い、どんな行動をとって今に至っているのかを、「精神科医」という仕事

とも絡めながらお話しいただきました。

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 <震災の影響>

・避難の影響も大きかった東北

特にお年寄りは、急激に生活環境が悪くなったために精神疾患を患う方々が多くなった。また、仕事面でも問題が出てきた。震災後働く人が急激に減った一方、災害のためにするべき仕事は山積みになった結果、オーバーワークになり、精神的に病む人が出てきた。

 

・計画停電が相次いだ東京

・崩壊した原発安全神話

今まで常識とされてきたことが崩れ、みんなが動揺した。そんな中で、今までの考えを改め、総合的に考える必要性が出てきた。どの影響も、外部には伝わらない過酷さを孕んでいて、震災の爪痕は深く、日本全体が関わっていくべき問題だということを改めて教えていただきました。

これから

常識的な考え方で対応できない状況に見舞われている中でも、日本中世界中が福島のことを気にしていることを知るということ。繋がり方が欠如しているだけで、自分たち一人一人が自分の考え持ち、はっきりと伝えれば、みんなが応えてくれるということ。また、情報発信をうまく使い、自分たちを助けてくれる仲間や友達を見つけることができるということ。災害によるトラウマや喪失体験は、中途半端にしておくと悪影響であり、ちゃんとした時と場所を選んで、その時々の自分の中の恐怖、悲しみ、絶望感をしっかりと味わうことで、前に進むことができるということ。ここまで生きてきた経験、勉強の手段をフルに活用して、皆さんに生きて行ってほしいということを話して下さいました。

<質疑応答>

Q.どのような気持ちで福島にきましたか?またうつ病や自殺の予防に取り組む活動の交流会ではどのようなこ

 とをしていますか?

A. 震災時は東京に住んでいましたが、福島で起こっている事が自分が生きている世界の大切なことで、他人事

 とは思えなかったからやってきました。きっと私のような人は世界中にいるということも、みなさんに知っ

 ていてほしい。私の交流会では、ちゃんと相手と場所選んで、自分の中の、普段は表に出さない、怒りや

 絶望をちゃんと誰かに受け止めてもらえる場所を見つけることを目標にしています。

Q.福島に引っ越して来る時、放射線などに抵抗はありませんでしたか?

A. 放射線怖かったです。ただ、この問題を無視したまま、知らないふりして生きて行くことの方がもっと怖

 かった。

Q. 精神科医になるために、やっていたことはなんですか?

A. 本をたくさん読んだり、人に会って、勉強は一生懸命しました。それから、自分の嫌なところから目を逸

 らさないようにしました。

Q. どうして精神科の先生になったのですか?

A. 外側の知識や人間がすごく発達しているのに、中身の人間が幸せになれないように感じていました。心の

 部分をちゃんとやって、外側の技術と内側のギャップが良くなる方法が見えてこないかなと思って、精神科

 になりました。